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LA・LA・LAND批評。(ネタバレ有)

今ラ・ラ・ランドの話をするのはどう考えてもミーハーだ。タイトルの通りネタバレを構うことをしないし、パンフレットの情報も構わず流用する。セッションは2回観た、最後の10分だけで言えばつい観たくなって何回も観ている。ミュージカルや元ネタとなった他の映画の素地は無い。ここの記述は便所の落書きチラシの裏に書いたメモである。また見解は数時間後・数日後には変わっているかもしれない。またここに書いてあることは決して他人の考えを否定するために書いた物ではない。少なくとも自分にそのような意図はない。「「自分のための」」意見である。

アカデミー賞は最多6部門を制したらしい。主演女優賞(エマ・ストーン)・監督賞・撮影賞・美術賞・作曲賞・歌曲賞。どれも妥当だし敢えて言えば作品賞を取っていないのも妥当かもしれない、と思う。(ノミネートの他の作品を鑑賞していないので絶対的な目線でしか見られないが)

 

観る際、「あまり期待し過ぎないように」と意識した。監督の前作『セッション』が余りに心に響いたからだ。セッションはラストシーンで視聴者にカタルシスを与える作品だ。恐らくラ・ラ・ランドはそういう類の作品ではないのだろうなあと考えていたため、どちらかと言えば終わり良ければ全て良し的な所のある自分はセッションを贔屓するのだろう、ということが分かっていた。だからこそ、別の物として観なければ、という意識を強く持っていた。

 

本作のテーマは夢・恋・音楽・・・「夢」が一番しっくりと来た。

夢には色々と意味がある。

・将来実現させたいと思っている「夢」

・あたかも現実の経験であるかのように感じる、一連の観念や心像である「夢」。虚構だ。

・儚いこと、頼りないこと。(「夢」物語)

他にもあるかもしれないがこの作品にはどの「夢」も独自の解釈を持って取り込まれていた。

まず映画開始直後、渋滞でのミュージカルシーンで鑑賞者は映画という夢に入り込む。魔法にかけられると言ってもいいし、恋に落ちると言ってもいい(僕が単にロマンチックな発言をしたいのではなく、公式HPや予告にその表現がある)

ここで掛かるAnother Day of Sunという曲はいかにも始まりを感じさせる曲で、一種のパレードのような、行進曲のような歓迎の曲に聞こえた。世界観を象徴するお気に入りの曲だ。

ミュージカルはそのシーンによって説明責任の軽減や回避を可能にすると思う。勿論描き方にはよるが歌って踊れば曲が終わる頃には二人は恋に落ちているし、あまりキャラクターに立ち入らなくとも鑑賞者が心情の変化に納得できるという点でやはりこの表現方法は偉大だ。少なくとも曲の間は飽きないし。だがこの作品がミュージカルであることの一番の理由は夢であることを確認すること、である。

夢を追い求める二人の表現者が出会い、恋に落ちる。表現者としての夢を取るか、恋を取るか。話としては、よくある。『はじまりのうた』なんかもそうだ。

 

終盤の意味について。パンフレットにこんなことが書いてあった。

「本当に深い感情は時空も現実も物理法則も超える」。矛盾する事実が両立することもあり得る(ここは要約)

○セブとミアが袂を分かちセブが店を開きミアが他の家庭を持ったこと。これは(夢の中の)事実である。

○だがセブとミアがそもそも決裂することなく添い遂げたこと。これも(夢の中の)事実である。

→つまり最後のミュージカルシーンは夢ではあるがもしこんなルートがあれば・・・というifの夢ではなく他の世界線と同じ価値を持つまた別の夢だ、と解釈したい。映画『ラ・ラ・ランド』という夢に入り込んだ時点で鑑賞者はその夢の形を決定する自由が与えられていて、製作者は虚構における受取手の可能性や幸せを選択する権利を呈示しているのではないか。

矛盾するような別の可能性が同時に成り立っているとしても観る側はもし違う道を選んでいれば・・・というラブストーリーによくあるような儚さ、切なさを同時に感じることもできる。(書き方で誤解して欲しくないが勿論よくあることは悪いことではない。自分は非常にロマンチックで良いと思ったし、思う所があった。)

夢とは、理想とは何か、必ずしも表現者としての成功に限られないし、恋人や家族の愛を知ることとも限られない。幸せは自分の中にありこの映画はハッピーエンドにもバッドエンドにもすることが出来る。選ぶのは自分だ。当たり前のことを言ってしまったが、ここが中々難しいと思った。

最後にミアが店を出て行くことが夢の終わりを示しており、鑑賞者は現実に向き合う必要が出てくる。虚構vs現実という構造が垣間見える点にはシン・ゴジラを感じるし最近こういうの流行っている気がする。

ただこの映画は見終わって暫くしてからじんわりと幸福感を感じることができた。瞬間の煌めきというよりは後から回顧することが出来るという意味でまさに良い夢を見させてもらったと思う。

 

難点を挙げるとすれば、カタルシスが足りないと感じてしまう。

純粋にうお!!この映画すげえ!!と思えなかったのだ。排反の良さがあるとは言え、自分はどうしても監督が『セッション』のデイミアン・チャゼルだという意識が抜けなかった。映画の欠点ではなく見る側の問題かもしれない。

ミュージカルという形式がテンションの上がり下がりを繰り返す性質を持っているからかもしれない。

セッションはアトラクションそのもの。ラスト数秒までジェットコースターは高く高く昇り続け最後に急降下する。

ラ・ラ・ランドはテーマパークそのもの。アトラクションに乗ったり降りたりを繰り返すが依然としてテーマパークの中を堪能しているのには変わりはなく、園の外という現実に出てからふと思い出して幸せに浸れる、そんな映画だった。

両者は似たようで全く性格の異なるものであり、恐らく前者を期待してはその期待は空回る。

 

ただカメラワーク、演奏(元々ジャズ系の音楽が個人的に好きなので特に)、衣装などの美術的観点等色々あるがどれも大変良かった。

特に音の使い方なんかで言えば、単に演奏シーンだけではなく、細かなSEのリズム・タイミング・間が絶妙だった。流石、と言わざるを得ない。

衣装・色使いもとても考えられているのだなあ、と。(他のレビューブログを検索していただければ面白い話が出てくるので参考までに)

 

あとJ.K.シモンズが出演していることを知らなかったので出て来た時はたまげた。もしかしたら、なんてセッションとの繋がりを考えるのも楽しい。

とても好きだし、良い映画だった。

サルでも分かる!星野源

普段仲良くしている人はお分かりだろうが、僕は星野源が好きだ。好きなんてもんじゃない。大好きだ。このブログのタイトルも彼の本からパクってきた。 

 

星野源は日本の俳優、シンガーソングライター、文筆家。埼玉県蕨市出生、川口市出身。(Wikipedia)身長は168cm、血液型はAB型の35歳である。今だと逃げ恥(逃げるは恥だが役に立つ)というドラマで主演級の扱いを受けている。

僕が彼のことを初めて知ったのは去年の紅白歌合戦だ。壇上でおっさんが楽しそうに歌ってた。いい曲だった。

ふーん、と言ってとりあえずその曲が入ったアルバムをTSUTAYAで借りた。いいアルバムだった。過去のアルバムも全て借りてきた。全部いいアルバムだった。そんな感じで新譜が出れば買って聞き、本も書いてるっていうから買って読み、映画やドラマも出てるって言うから一部を観(見)た。

人柄を観察すればする程、好きなタイプの人間だと分かった。ドラマでは一丁前に正統派っぽい顔つき(流行りの言葉で言うと、face of 正統派)の俳優をしているが実際はかなりどうしようもない人間である。

人付き合いは苦手だし身体も心も弱い。特にお腹が弱い。あと九九の後半パッとできない。「老舗」も「鯖」も読めない。いつもどこか独りなきらいがある。多人数で道を歩けば一人だけ後ろにはみ出してしまうような人間である。大学受験に落ちて家を出た後、数年間アルバイトで生活していたらしい。ずっと他人に否定されてきたタイプ。あと変態でオタクだ。

 

まあとにかく、ジメジメした人間だ。でも彼は自分を持っていて、それを必死に表現しようとしている。そこがいい。なんていうか、憧れの存在なのだ。ここまで(事実とは言え)disっておいて何を言うかという感じだが。

自分も独りが嫌だと思いながらも一人が好きだし他人とは分かり合えないという鬱屈した感情を持ちながら暮らしている。小さい頃から病気がちで精神的にもどうしても強くなれない、それが肺気胸やらなんやらで表に出てしまう。自分が好きだが、同時に嫌いだ。昔のトラウマに囚われ、心のどこかで抜け出せていない。故に、いつも独りだ。

そんなジメジメした自分からすると、迷いながらも自分を伝えようと努力し生きていけている彼は非常に尊敬できる。あのクシャッとした笑顔や明るさはそれなりの想いや過去を秘めているのだな、と思ったりする。そんな人に惹かれる。

 

本人も語る通り、くも膜下出血で倒れる前と後では作る曲が違う。以前は彼自身のメッセージを伝えようとする曲作りだったが、最近は「SUN」や「恋」のように聞き手が受け止めて自分なりに消化できるような曲が中心になった。本人によれば、入院して散々辛い目にあったことから苦労はもういいや、明るく楽しく生きたいと思えるようになったそうである。同時にもっと人のことを知りたい、人の話を聞きたいと思うようになり、それが曲作りに影響してきたんだと思う。

(現にSUNの歌詞では「君の声を聞かせて」とこちらに語りかけるような表現がある)

彼自身成長していくことで僕も一緒に進んでいるような感覚を持てて、とても好きだ。彼の成長・変化はどこか穏やかで優しくて、こっちもふんわりと受け止められる、気がする。

弱かった人間は強いなあ、と思ったりする。

 

因みに僕も彼も前川みくちゃんが好きなのでいつか固い握手をしてみたい。

生活
  Cobalt1207
3冊目! pic.twitter.com/x8z6EhvQVB
2016/11/29 17:32

 

 

手帳を買った。毎年同じシリーズを買っていて、もう3年目だ。最初は濃い青が素敵だったから買ったのだが翌年はターコイズ、その次は水色とどんどん薄くなってきているので次は白にでもなるのか。もうちょっとガラッと変わればいいのに。青が好きだからいいんだけど。

いつも使っている訳ではないけど、基本的に暇を良しとする生き方を目指す僕でも大学に入ってバイトをするようになったら必要になった。

今になって昔の予定を見返してみると結構面白い。あの頃はあれで忙しかったな、とかこんなこともあったな、とか。やっぱり毎年4月らへんは予定がたくさん入ってるもんだ。それに比べて2015年の9月には一ヶ月の予定にぽつんと「アメリカ」としか書かれていない。まあアメリカ行ったからなんだけど、夏休みだったし他に忘れちゃいけない予定はなかったのだろう。

こんな感じでこのシリーズの手帳にも愛着が湧いてきたし、これから来年も再来年もその次もこの手帳を集めていくのだ。そして10冊ぐらい溜まった所で並べて部屋でニヤニヤ眺める、そういうことに喜びを感じる。映画の半券も一枚一枚ノートに貼ってニヤニヤしているし、縁があったら切手収集とかも趣味にしていたに違いない。

 

それに近い意味では漫画なんかもこの巻だけ買う、みたいなのは有りえない。買うなら全部買う、買わないなら全部買わない。買っている漫画の中だとこち亀だけはその原則に反してしまっているのでいずれは全部買おうと思っている。好きなので持っている巻を売るという発想はない。

あ、荒川弘銀の匙は途中まで電子書籍で買ったんだった。個人的にはやっぱり本は蒐集の目的もあるし手触りがどうのこうのという理由で物理的に持っておきたい。データだと逆に失くすし。銀の匙は何処かに行ってしまって見つからない。

上記の例はこだわりと言える程主張の強い物ではないと思うけど、こだわった先に自分が見えてくる気がするのでどんどんこだわっていきたい。他人に迷惑かけない程度に。

シン・ゴジラ

を見た。2回目である。一度目は新宿のピカデリーで、今回は二条TOHOのMX4Dで。

MX4Dは思ったより揺れるわ水掛けてくるわマッサージしてくるわで中々ハード面白かった。映画を見た人向けの感想なので注意願いたい。

 

シン・ゴジラ。特撮映画というよりは官僚・政治家による困難解決映画。ゴジラどころか特撮物はほとんど分からず、官僚物だという前評判を聞いていたので見に行った節はある。あ、でもよく考えたらキングギドラが出てきた奴は見たことあるな。この人形持ってたし。ウルトラマンの人形も持ってたし覚えてないだけで結構好きなのかもしれない。

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登場人物は官僚や政治家が主。皆早口で簡単なことを難しく言う。何をするにもまず会議、会議、会議をするための会議...(「民主主義の根幹」である)主演の長谷川博己扮する矢口蘭堂内閣官房副長官が語る所では、初期対応の遅れにより被害が甚大な物となってしまったという。恐らく製作側はヤシオリ作戦で逆転ホームランを打つ彼らの姿を印象づけるために行政府や立法府の無能さを最初にアピールしたかったのだろう。確かに災害に際してもどことなくのんびりした雰囲気はあったが、個人的には彼らは十分有能であるし民主的な手続きに則った正当な行動をしていたと思う。彼らの、特に矢口の日本という国に対する熱い思いが感じられてかっこよかった。

散々話題になっているようにこの映画の監督はエヴァンゲリオン庵野秀明さんであり、エヴァをそんなに深く知らない僕も少し見ただけで「あっ、これエヴァじゃん!!」と感じた。細かいカット割、明朝体、ヤシロ作戦とヤシオリ作戦、とか。BGMもよく聞いたことあったなあ。

何よりゴジラ=荒ぶる神という設定は気に入った。ではゴジラの正体とは何なのか?牧教授は何を「好きにした」のだろうか?

 

劇中で紹介されているのは古代生物か何かが海中に投棄された放射性物質を捕食して進化したという仮定であった。

しかしネットで見かけた意見で好きなのは、牧教授=ゴジラ説。

この映画のキーパーソンである牧教授は妻を何らかの放射能に関する事故で失い、それ以来放射能や政府を恨んでいるという。ゴジラが執拗に東京に出現し街を破壊する理由は本編では明かされておらず、謎のままである。もしかしたらゴジラは牧教授か、牧教授がコントロールした存在で、人類に復讐しようとしているのではと考えられる。牧教授がゴジラになるとしたらなんで人間がゴジラになるんだよ的な疑問はあるがそもそもゴジラは今の所現実に存在しないのである程度の妄想は妄想として許容される。そしてゴジラを倒すヒントを人類に提示し「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」と述べ人類に解決へのチャンスを残したのだ。人類がゴジラという災厄とどう向き合い、対処するのか、熱核兵器の使用という手段も含め人間を試しているように見えた。

この「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」という台詞、僕には監督が視聴者に向けて発している言葉のように見える。「好きに作ったから好きに見てくれ」実際好き放題作ったから面白くなったのかもしれない。(「無人在来線爆弾」というパワーワード、ここ最近のパワーワードの中でも一番好きかもしれない)

序盤の船に置いてあった宮沢賢治の『春と修羅』はどういう意味なんでしょ。読んでないから分からんけど詩の短編集なんだよね。

 

そして僕が特に好きな、夜の東京でゴジラが破壊の限りを尽くすシーン。

米国の攻撃を受けたゴジラがレーザーで反撃、見慣れた街が一瞬で破壊されていく。いやこのレーザー最強だろ。内閣強制総辞職ビーム。このシーンで圧倒的な絶望感を感じた人は多いだろう。僕もあのシーンはBGM(『Who will know』)も相まって底知れぬ絶望感・無力感をひしひしと感じた、これが荒ぶる神かと。ただ街が破壊されていくことへの悲しさ、というよりは街を破壊することしかできないゴジラに対する悲しさを感じていたのか、と少し思う。ゴジラは恐怖の象徴だが同時に悲劇の象徴でもあるというような意見をどこかで見たからかもしれない。炎の中立ち続けるゴジラの目が人類への怒りに燃えているようにも見える。

 

物語終盤の展開、所謂「ヤシオリ作戦」はゴジラの体内に血液凝固剤を投与してゴジラを凍結させてしまおうという作戦だが、これに関してはいやいや、ゴジラが良い向きで倒れてくれてコンクリートポンプ車が近付けるなんて都合良すぎだろ(笑)という批判はあるかと思う。ただ本編中でも赤坂秀樹内閣総理大臣補佐官が矢口に対して「お前の案は不確定要素が多すぎる」みたいなことを言ってたし一か八かの賭けなのかな、これが失敗したら核に巻き込まれて死ぬぐらいの覚悟でやっていたのかと思うことにする。いずれにしても作戦内容は地味でカタルシスに欠けるという意見はある。

 

そしてゴジラは活動を停止し物語はおしまい、と思いきや最後にゴジラの尾が数秒間映りスタッフロールに入る。これはどういうことなのだろう。ゴジラの尾には人のような何かが複数接着されておりこれは何なのか分からない。

散々議論はされているが尻尾に付いているのはゴジラだという説をよく聞く。作中でもゴジラは無性生殖で殖えるという発言があったし無くはないだろう。

個人的には尻尾に付いているのは人間、だとも思う。作中では尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐が「ゴジラよりも人間の方が怖いですね」と何ともテーマらしいことを言っていた。ゴジラという簡単には克服できそうもない危機に瀕した人間は熱核兵器の使用を決断し正義のため、人類のためとボタンを押そうとする。逃げ遅れた人間には犠牲になってもらうしかない。ゴジラという「神」であり「親」を超越した(超越できてしまう)存在が人間であるというのがシン・ゴジラのメッセージ、僕も好きに見させてもらうとそう思ったりする。

そう考えると別に映画の専門家でも何でもない僕みたいなアホが好きに見ても良いという免罪符を貰えるのは中々嬉しい。良い映画であった。

作った。

タイトルの通りである。目的語はブログ。

最近身辺のオタクがブログを書いているのを見かけるので自分も久しぶりに書いてみるか、と思った。実は2年近く前にも少しだけ文章を書いていたのだがアレは自分の考えというよりは単に日常生活の記録・痴呆防止に過ぎない物だった。(twitterでそういう使い方をしている方を見かけたのでパクった。)そちらを使っても良かったのだが2年も昔のことなのでもうあのページがどこに行ったのやら覚えていないのだ。

まあ何書こうとかは特に決まってない訳だが、適当なことを書いても良さそうな範囲で書こうと思う。今まではfacebookがそういうツールだったのだが最近気付いた所facebookはあんまり面白おかしく記事を書いちゃいけないらしい、少なくとも就活を控えた大学生には。

他人の単調でどこか背伸びした近況報告とそれへの「いいね!」で出来ているのがfacebookらしい、まあそこら辺はゴチャゴチャ言わずに郷に従おう。別にそれが悪いとは言わんし。

 

・好きな物を何回も見ちゃう話

もう題名で完結してるよね。見ちゃうんです。たまこラブストーリーというアニメ映画は別に特典があったとかじゃないけどついつい毎週映画館に吸い込まれてしまったし四月は君の嘘というアニメの最終回は親の顔より見た気がする。そういう作品は大体自分の中で作品構成がスッキリと纏まっていて見る度に安心感を覚える(そして泣く)。

最近は10回以上見た物はないけどRe:ゼロから始める異世界生活の18話は何回か見た。良い物。

 

箇条書きにして何個かオチのない小話を書いていこうかと思ったけどもう時間も時間だし特に思い浮かぶ話も無いので今日はこれで終わり。今気付いたけど長文って何かしらオチが要求されてる気がしてオチを付けずに書くのは何処かモヤモヤしてしまう。大学受験に落ちたことがあるんですけどそれじゃダメですかね?ダメですか、はい。